略歴: 1963年神奈川県藤沢市生まれ。高校時代は映画研究部に所属。1997年よりフリーランスのライターとしてさまざまな媒体に映画レビュー、インタビュー記事を寄稿。得意ジャンルはアクション、ミュージカル。最も影響を受けているのはイギリス作品です。Yahoo!ニュースでコラムを随時更新中。
近況: 今年もクリティクス・チョイス・アワードの授賞式に出席したところ、席がローガン・ラーマンらと同じテーブルに。「僕はローガン・ラーマンといいます。よろしくお願いします」と相変わらずスターとは思えない腰の低さ。ノミネートされてたローガンが受賞を逃すと「残念~」とみんなで乾杯。「SHOGUN」のテーブルもすぐ横で一喜一憂の授賞式でした。
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基本は恐ろしく凶暴な感染者たちなのだが、進化によってその種類もいくつか登場し、ビジュアルがこれまたインパクト強大。頭蓋骨が高く積み上げられた塔など、こうしたサバイバルスリラーにしてはプロダクションデザインが崇高な魅力を放っていたりと、そのバランスも絶味。
A・ガーランドは『シビル・ウォー』の延長で、本シリーズにも社会派側面をプラスさせるのか…と向き合ったところ、世界の歴史を重ねる冒頭の映像や、隔絶された世界での文明の意味などでそのムードは匂わせつつ、全体はエンタメ志向を貫徹。
明らかに超危険な場所に無防備で行くツッコミどころはさておき、観賞後のモヤッとした感じは本作の立ち位置からして仕方ない?
原作の「感覚」をそのまま映画化することが理想なら、これはそんな一作。ただしその感覚は「不可解さ」でもある。
1982年に英国にいる主人公が、1952年の日本での生活を回想する構成だが、特に日本パートに言いしれぬ違和感が積み重なっていく。そこをどの時点でキャッチできるかで作品の印象も変わるはず(早いから良いわけでもない)。これは文学全般の魅力でもあり、映画としてその魅力の追求→成功例に。しかしテーマとしては「母親として娘への後悔」が通底しているので鑑賞後の余韻はことのほか深い。
キャストも総じて好演。中でも二階堂ふみは1950年代の日本映画からそのまま抜け出たような佇まいと台詞回しが美し過ぎた。
記録として後世に残す。その意味で重要な一作。
明らかにマスク不可欠なシチュエーションで、俳優の渾身演技を伝えるためマスクなしは映画として正しい選択。一方でDMATチームの冷静さ、妙に穏やかなムードは“非・映画的”だがリアルかと。
隔離必須の状況のため、どうしても閉塞した個別のドラマとなり、説明会話で進むシーンも多いのは仕方なく、映画的ダイナミズムは必然的に希薄になる。乗客のパニック感や恐怖、船外の一般市民の味わったことのない不安の描写が限定的ゆえ、切迫感は少なめ。当時のニュースを見守った側として、メディアへの皮肉も、もっと強く刺してほしかった。
ただ繰り返すが、未曾有災害の「記憶」として必見。
序盤、『怪物』のような流れを予感させつつ、思いのほか、わかりやすい展開に落ち着く。そこが物足りないと言えるも、誰もが入り込みやすいとも。
「教師の体罰」と「モンスターペアレンツ」の構造も、タイトルが示すように主軸となる視点は明らか。メディア問題など多くの社会派テーマは表層を掬い取り、素直に感情を持っていく、三池監督の演出は手堅い。「その場を収めるためだけの謝罪」「多くの人が信じれば真実に」という問題は、やがて教師という職を超え、ひとつ間違えれば誰もが経験するかもしれない恐怖へと変わる。
特に前半、観るものの混乱を喚起するうえで綾野剛の演技が凄まじい振幅。難しい役を軽々とこなす柴咲コウもさすが。
「痛みを感じないから、どんな攻撃受けても戦える」設定は、ジェイソン・ステイサムあたりが演じたらハマリ役なのだろうが、このジャック・クエイドの“頼りなげ”な雰囲気が、逆に映画を痛快にさせた。
主人公の無痛無汗症は実際に存在する難病であり、センシティヴな配慮も必要だが、描き方はギリセーフ。『ホーム・アローン』のパロディなどコメディに振り切れる場面が多いし、病気の日常的な切実さもさりげなく盛り込まれる。主人公が自らの使命を自覚する瞬間は妙にカッコよかったりも。
ストーリー上、肉体の極限を試す「痛い」描写は避けられないので、わずかな覚悟は必要。全体に想定どおりとはいえ、求めるものは叶えてくれる良心作。