『国宝』が約3時間の長尺にして受け入れられる理由

6月6日に初日を迎えた吉沢亮、横浜流星共演の映画『国宝』が、好調だ。上映時間2時間55分の長尺のため劇場回転数的には不利な作品だろうが、初日から3日間で動員24万5,000人、興収3億4,600万円を記録。『リロ&スティッチ』『ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング』に次ぐ3位デビューを果たした(数字と順位は興行通信社調べ)。各劇場で満席が続出し、パンフレットが完売、増刷が決定するなど反響の大きさをうかがわせるが、中でも特筆すべきは圧倒的な評価の高さだろう。先んじて上映された第78回カンヌ国際映画祭では約6分間のスタンディングオベーションを受けており、コアな映画ファンからライト層まで幅広く波及している印象だ。そんな本作の特異性とは? 作品の構造や具体的なシーンを取り上げつつ、今一度考えてみたい(※一部ネタバレあり)。(文:SYO)
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王道のライバルものと一線を画す喜久雄と俊介の関係

映画『国宝』は、『悪人』『怒り』の小説家・吉田修一×李相日監督の最新タッグ作。極道の息子として生まれた喜久雄が歌舞伎役者・花井半二郎に引き取られ、芸の道に生涯をささげる姿を見つめる。約50年に及ぶ栄枯盛衰・波乱万丈の一代記だが、その主軸となるのが喜久雄と半二郎の息子・俊介のライバル関係。天賦の才を持つも家柄の壁に阻まれる喜久雄と、将来を約束された御曹司ながら才能の差に苦しむ俊介。才か血か--。対照的な2人が切磋琢磨し、互いに刺激を与え合いながら成長していくドラマは少年漫画的な王道展開といえるが、こと『国宝』においてはそのフォーマットに対する味付けが独特。互いを認め合い、理解し合っているのに争わねばならず、道が分かれていく“切なさ”や“哀しみ”に注力しているのだ。
こうしたライバルものは、「天才(持つ者)と努力家(持たざる者)」という、性格もスキルも正反対のふたりが対立や衝突を経て認め合い、絆や友情を獲得していくケースがほとんど。嫉妬や畏怖から来る敵対感情がやがて『SLAM DUNK』『ハイキュー!!』『僕のヒーローアカデミア』のようなチームメイトやバディの関係になっていくところにカタルシスがある。ただし、『国宝』においては、喜久雄と俊介は喧嘩や口論をしない。正確にいうと、「約束されていたはずのポジションを奪われる」「成功を極めたと思っていたのに出演機会が激減する」といった事件によりそれぞれの絶望がピークになった際に感情をぶつけ合うのだが、やがてそんな己を恥じ、相手を想い、自らトーンダウンしていく。
そういった意味では、本作は音楽家モーツァルト(天才)とサリエリ(凡才)の関係を描いた映画『アマデウス』(1984/ミロス・フォアマン監督)のような愛憎ものとも少々趣が異なる。熱血やドロドロ感というより、内向的でナイーブな悲恋ものに近い雰囲気が漂っており、喜久雄と俊介が共に“芸に狂わされてしまった”悲運な人物のようにも映る。互いの成功を妬んで妨害工作もしないし、できることなら迷惑をかけたくない、一緒に手を取り合って歩んでいきたいと願う両者の関係性はなかなかに異端であり、特有のウェットなエモーションを生み出している(「女形」という情感を求められる役どころとも絶妙にリンクしている)。
吉沢&横浜が芸に命を燃やす歌舞伎役者とシンクロ

そうした喜久雄と俊介の孤独、芸の道を歩むほどに周囲の人生を巻き込み、時に壊し、自身も傷ついてしまう繊細さを体現したのが、吉沢亮と横浜流星。吉沢は「青天を衝け」(2021・渋沢栄一役)、横浜は放送中の「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(蔦屋重三郎役)と共に大河ドラマの主演俳優であり、吉沢は『ぼくが生きてる、ふたつの世界』(2024)で第34回日本映画批評家大賞主演男優賞、横浜は『正体』(2024)で第48回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞。名実ともに日本を代表するスターの2人だが、この5年ほど彼らを取材してきた身からすると、本人たちは決して器用な人物ではない。追い込まれずとも生来の生真面目な性格からか何を置いても芝居のことを考え、打ち込んでしまう愚直な生き方しかできず、コンプレックスや自身にかける重圧と格闘し続けている努力の人--という印象だ。

吉沢は李監督の『怒り』(2016)のオーディションに落ちた過去を明かしており、横浜はよくストイックといわれることに対して「自分はただ不器用なだけ」と常々語っている。撮影期間も含めると1年半を役作りに費やし、女形になりきった吉沢、そして横浜の技術の高さは言わずもがなだが、先に述べた各々のパーソナリティが喜久雄と俊介に合致しているため、内面の芝居もそん色のない奥行を生み出している。
その一例が、中盤に登場する、化粧の崩れた喜久雄が建物の屋上で泣き笑いをしながら舞う象徴的なシーンだろう。ホアキン・フェニックス主演の映画『ジョーカー』(2019)を想起する観客も多かった場面だが、セリフがないなかでも喜久雄の中でない交ぜになった絶望や悔恨、怒りや狂気といった激情を解像度高く表現しており、吉沢の演者としての凄味を感じさせる。また、横浜は『国宝』の完成報告会の場で「俊介という人物は、僕自身とは正反対でむしろ苦手な人間です。なので、普通の役作りとは違って、まず理解し、愛することから始めました」と語っているが、自身の生まれに対する甘えがあった俊介がプライドを捨てて「俺、本物の役者になりたい。なりたいねん……」と吐露するシーンは、横浜自身の魂も乗った嘘偽りのない感情が流れ込んでくるよう。
鬼才・李相日監督の感情のライブ感を重視する演出

華やかなパブリックイメージのある2人だが、実際は泥臭い“芝居馬鹿”であり、吉沢は『リバーズ・エッジ』(2017)や『AWAKE』(2020)のように寡黙で陰のある役どころ、横浜は『ヴィレッジ』(2023)や『流浪の月』(2022)などで精神的に脆い人物の落差を体現してきた。「仮面ライダーフォーゼ」(2011~2012)での初共演から約13年--。2度目の共演作となる『国宝』は、経験を積んだ両者の道が再び合流した作品でもあり、そうした意味でも喜久雄&俊介が辿る道のりとオーバーラップする。
最たる例が、俊介が喜久雄に化粧を施すシーンだ。俊介を押しのける形で半二郎(渡辺謙)の代役を務めることになった喜久雄だが、才能で血筋に打ち勝った喜びではなく重圧と不安に押しつぶされそうになる。自分でも厚顔無恥と痛感しながら、俊介だけに「幕上がる思うたら震え止まらんねん。守ってくれる血が俺にはないねん」と告白する。俊介にとっては屈辱的ともいえる場面だが、「芸があるやないか」と励まし、手が震えて定まらない喜久雄の代わりに化粧を行ってやるのだ。喜久雄と俊介の関係性を見事に表しつつ、本作が従来のライバルものとは一線を画す決定的なシーンともいえる。観客にとっては、吉沢亮と横浜流星という俳優同士の絆のドラマとしても響いてくるのではないか。

活躍するフィールドこそ違えど、役者が役者を演じるメタ構造も有した本作で効いてくるのが、李相日監督のアプローチだ。彼は登場人物、ひいては役者自身の感情が決壊する瞬間にグッとフォーカスする特徴があり(『怒り』の宮崎あおい(※崎=たつさき)や広瀬すずが叫ぶシーン、妻夫木聡が雑踏を歩きながら落涙するロングショットが代表的)、感情のライブ感を重視する作り手。その李監督が歌舞伎を撮るとなったら、ストロングポイントが強まるのは必至。上演シーンにおいても演目そのものを見せようとするのではなく、演者の執念や集中力、肉体にかかる負荷といった人間の生々しさを重点的に映し出している。
興味深いのは、こうした特徴が我々観客の感覚にも影響を与えていること。映画であれば2時間を超すと「長い」と思うだろうが、舞台を観劇していると思えば3時間は「普通」のものとして受け入れられる。作品の前評判の良さに加え、こうした認識のズラしが、長尺というハードルを乗り越えて人々を劇場に向かわせている一因なのかもしれない。